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ロボティクス
田森 佳秀

1962年北海道生まれ。東北大学工学部応用物理学科卒。工学博士。理化学研究所基礎特別研究員やアメリカ・ソーク研究所の客員研究員を歴任。数学とコンピュータのスペシャリスト。現在、NPO法人ニューロクリアティブ研究会のディレクターを務める。

茂木健一郎先生が田森先生を紹介されています。

茂木健一郎の脳の教養チャンネル

大学院時代

ランダム磁性体の統計物理の研究とエキスパートシステム等を用いた囲碁を打てる人工知能を作る研究をしていました。博士論文の研究は大脳皮質視覚野のニューラルネットワークの自己組織化の研究です。これは、大脳皮質が外界からの入力を受けてどのようにニューラルネットワークを発達させるのかという事についての原理的な法則を見出そうというものでした。センセーショナルな結果は出ませんでしたが、神経回路網の正常な発達にはネットワーク内のセルフフィードバックが重要であることをコンピューターシミュレーションによる実験で示す事ができました。この時に、神経場の数学的定式化を行うために、建築学や天文物理学で使われるテンソルと流体や粘性体の定式化を行う連続体の物理学を掘り下げました。ところが、天文物理学があまりに面白かったので、素粒子論や一般相対性理論を更に深める理論物理学への転向を考えましたが、博論が辛うじて通ってしまったので、理化学研究所のフロンティア研究員に就職しました。

理化学研究所

ラットやサルを使った電気生理学的な研究と、樹状構造を定量化する数学理論を作る研究を行っていました。当時、物理学者やコンピューター科学をやっていた者が生物科学に携わるという事自体が一般的でなかったため、本当に基礎から学びなおしました。その後、科学技術振興事業団のさきがけ研究員となり、意思決定の神経科学的基盤に基づき、意思決定の原理を見出す研究と、クオリアの神経科学的基盤を予言しようという野心を持ってしまい、絶望的に困難な分野に飛び込むというドン・キホーテ的な習慣が出来上がってしまいました。サンディエゴにあるSalk研究所では、なんとか色のクオリアと同値な代数方程式が作れないかと苦心惨憺しましたが、同値であることを研究者が決めるという論理から自由になれずに現在に至ります。
 

金沢工業大学

ヒトの脳活動を脳磁場やfMRIによって計測したり、ヒトの計測に先立ち、脳の心理物理学的な計測を行う事によって、なんとか上述の野心に迫れないかと様々な研究を試みました。その後、大学を退職した後、フリーで委託研究を請け負うようになり、内閣府のImPACT研究に専念する事ができるようになったので、超小型の脳波計測装置を開発する事が出来ました。現在委託を受けて行っている研究は、ある企業の事業の根幹となるデータをディープラーニングなどの機械学習による解析と、これに基づく未来値の予測です。

 

KIAでのカリキュラムについて

Personal ProjectとElective STEM classの授業内容は、次世代の学びの姿としてあるべき形態として、様々な考え方があるのですが、具体的な実践例が乏しく暗中模索の体をなしている現状を、なんとか確立した学びの具体例になるようにと考案したものの実践になっています。詳細は、プロジェクトテーマ例を見て、ぼんやりと浮かび上がってくるとは思いますが、現在、世にあるもので一番似た行事は、TED( https://www.ted.com/#/ )です。STEM(Science, Technology,Engineering, Mathematics)という縛りはありますが、クラスの他のメンバーにとって価値のあると思われる問題(実は自分が面白い、大切であると感じた問題)を見つけたら、なんとか解決するという事を、毎回やってもらいます。このためには「何か面白い事が無いか?」と常にキョロキョロしている必要があります。

この授業で、募っているショートプレゼンテーションは、宿題やテストのような評価対象ではありません。だから、子供の中に「人に話したい」という気持ちが湧いてこなければ、強制はされません。

こういったことを繰り返しているうちに、「この宇宙は面白い事で満ちている」という正真正銘の意味での環境の肯定感を育てる事ができます。これは、自分がこの面白くてしょうがない宇宙に生きているという、生きる事の強靭な肯定に繋がります。

この授業の最大の目的である「『人に話したくて仕方ない』ぐらいの面白い『理解』を探しあてる」という事に1回でも辿り着けたら本当にラッキーだと思います。

 

マサチューセッツ工科大学

1年間客員研究員として、言語発話時の脳活動の計測を行っていました。あの「米国は世界一邪悪なテロ国家である」と言ったノーム・チョムスキーの研究室です。そこでは、言語学という、人文科学とコンピューター科学の間の子のような学問を学びました。

このように、フラフラと1つに定まらない分野を渡り歩く事に何の心理的障壁も無かったのは、小中学校時代、過疎故に崩壊していた学校で育ったためだと思っています。

冬にはマイナス20度まで下る中で、10kmも離れた自宅から歩いて通わなければいけない子がいてもスクールバスすら用意できない過疎地では、その頃文部省が強制していた(明治時代から殆ど変わってないスタイルの)教育が崩壊しても無理はありません。しかし、その旧型教育の崩壊は、文部省の目の届かないところで、真に必要な教育を手に入れるチャンスでもありました。私の記憶の中では、私のあの頃の先生たちは、私達の教育に害があると思われる形式的で原初的理由の無いものはすべからく無視していたように思います。今の日本でやったなら懲罰モノでしょう。

例えば、私は高学年のとき低学年の教育に駆り出されておりましたし、1ヶ月学校に顔を出さなくても、年の半分が大遅刻でも、たまに試験を受けなくても先生方とは、友人のようにハラを割って話す仲間でした。

その頃の私の学びは、今現在と変わらず「研究(探究)」そのものでした。

その頃の私は、発見した「理解」を、いつも先生や親に話したくて仕方ない日々でした。本当に、考えられる最上の学びの環境だったと思っています。